ネパールについて
ネパールの国勢情報
国名: - ネパール連邦民主共和国 首都:カトマンズ
面積: - 147,181平方km 人口: 約2589万人
言語:- ネパール語(Nepali) 通貨:ルピー(Rupee) 約1.4円@ルピー
人種: - 40以上の民族が暮らし、その方言は約70にもおよぶ
宗教: - ヒンドゥー教と仏教
位置: - インドと中国チベット自治区との間
経度:- 北緯26°12' ~30°27'
経度: - 東経80°04'~88°12'
標高: - 海抜70 m~8,848 m
政体: - 連邦民主共和制
地形: - 世界で最も深い峡谷カリ・ガンダキ(Kali-Gandaki)や世界最高峰エベレスト山(ネパール名サガルマータ)8,848 mを含む複雑な山岳地形
時差: UTC+5時間45分
*人種と宗教: -
ネパール民族は主としてモンゴロイド系とインド・アルヤンズ系の2つのグループに分けられます。カトマンズ盆地では精霊的、文化的にこれらのグループが交錯し、仏教寺院やヒンドゥー寺院が多く散在しています。ネパールは仏教とヒンドゥー教の2大宗教の国であり、ブッダの生誕地があることでも良く知られています。
ネパールは大国インドと中国の間に位置する南アジアの小さな国です。この小さなヒマラヤ王国は幾世紀にも亘って世界から実質隔絶していました。その為、手つかずの山脈や山腹に広がる緑の段々畑、そして深いジャングルや畏敬の念をかき立てる白い川、自然環境と同じくらい美しく豊かでカラフルな文化を持った人々の暮らしが持続されてきました。
近年、外国人に対して開放されたネパールはヒマラヤ山麓やジャングルに挑もうとする冒険旅行家にとって容易に行きやすい国になりました。現在のネパールはトレッカーにとってはパラダイスです。最高峰エベレストを含め地球上で高山順位の12座以上を有し、それらの壮観な山岳風景を求めて、毎年数千人の人々が今や聖地となったネパールに世界各地から訪れています。なおトレッキングに必要な手続きはエリアによって異なりますが首都カトマンズの観光局やネパール・トレッキング・エージェンシー協会、旅行代理店などで行うことが出来ます。
この小王国はまた眺望が良いと評判の3大河川、ナラヤニ(Narayani)川、カルナリ(Karnali)川、そしてサプタ・コシ(Sapta Koshi)川を誇りとしています。それらの川は高山の氷河や神秘なるチベット高原を源としヒマラヤのごつごつとした峡谷を形成しています。その雪解け水は穏やかな聖アグネス川(the Holy Agnes)に達する前に熱帯ジャングルへと流れを変え、やがてテライ(Terai)平原へと達します。
ネパールにはチトワン(Chitwan)、バルディア(Bardeya)そしてコシ・タプ(Koshi Tapu)国立公園があり、アジアの中でも野生生物の保護区として有名です。これらの国立公園には希少なインドサイやシカ、ナマケモノ、イノシシ、淡水イルカ、ヒョウ、クロコダイル、450種以上の野鳥そしてベンガルトラなどが生息しています。
これら魅力に満ちたネパールは「人の数ほどの神々、家の数ほどの寺院」を有する美しい国民と世界中から称えられ、永年に亘りその豊かな文化を守ってきました。そしてその伝統はカトマンズ盆地に明らかに残されています。ビジターは2~3日間かけて、かつてはカトマンズ盆地にある独立した自治州であったカトマンズ市、パタン(Patan)市そしてバクタプル(Bhaktapur)市の寺院を散策します。美しく芸術的装飾が施された建築物、パゴタ内に安置されている古代の銅や石の像は優雅な佇まいで、他と比較できないネパールの独自の特徴を備えています。寺院やストゥーパ(Stupa)と呼ばれる仏舎利にも木彫、金属加工、テラコッタそして石による彫刻が数多くあります。
ネパールはヒマラヤ高山の登頂のため、世界中から多くの登山遠征隊を招き入れてきました。最高峰エベレストのヒラリー卿とテンジン・シェルパによる歴史的初登頂以来、そのスケールは日増しに高まり続けています。
HIMALAYAN DEEP BREATH TREKS PVT.LTD. はあなたとあなたのクライアントのご要望に様々な方法で応えます。ではネパールでの魅力ある楽しみ方を幾つかご紹介しましょう。
トレッキング: ネパール語で大きな"雪の住み家"を意味するヒマラヤ山脈はアジアを跨いでいます。そしてネパール王国のその山岳景観は他に追随を許さないほどの壮観さが見られます。しかしながらその感動を目の当たりにするには、山岳地帯がカトマンズ盆地から遠くにある為、街を離れ、基本的に徒歩でピークを目指さなければなりません。ただ徒歩で行くということは山を眺めながらだけではなく、人里離れた村落に暮らす人々とも触れ合う機会があり貴重な体験をされると思います。私どもはこれらの地区を訪れることで自然や文化の理解を深めることにつながると考えています。ぜひ、あなたの夢の実現のためにも私たちと一緒に訪れて下さい。
HIMALAYAN DEEP BREATH TREKS PVT.LTD.はご家族、少人数のグループから組織的な大パーティ、旅行代理店までトレッキングのアレンジを致します。数日間から数ヶ月間にわたるトレッキングも可能です。ネパールの良さをたっぷりと味あうにはショート・トリップよりも、少なくとも2週間程度の旅程をお勧めします。容易な低山の峠越えからハードなコースまでお客様のご要望に沿った計画をご提案します。6000mを超える峠越えや山頂へのガイドも可能です。トレッキング・シーズンは通常9月から5月までですが、モンスーン・シーズンのムスタン(Mustang)、シムコット経由カイラッシュ山(Mt.Kailash via Simikot),、ウッポール・ドルポ(Uppor Dolpo)やチベット・ツアー等もご希望によりアレンジ可能です。ご希望により登山遠征隊に必要な全てのマンパワーや装備そして登山計画の支援を致します。
トレッキング・グレード:
A = 軽いウォーキング
B = やや長めの距離をゆっくりとウォーキング
C = やや活発なハイキング程度
D = 高度6000mまでのきついトレッキング
E = 高度6000m以上の雪山、氷山への本格登山
(最低限4人/グループ以上が必要です。)
スワヤンブナート(猿の寺): - スワヤンブナート(Swayambhunath)は幾度となくその歴史を積み重ねてきました。そして13世紀までにご神体を安置するドーム状のオリジナルの建物が加えられましたが、ストゥーパの尖塔は15世紀に損壊、その後再建されました。丘の上に立つストゥーパ周辺には寺院や巡礼宿があり、仏教徒とヒンドゥー教徒のそれぞれご神体像が設置されています。また丘の裏手には学問の女神(Manjusri of Saraswati) が奉納されています。
スワヤンブナートはおそらくネパールの宗教的調和性をうかがえる最も良い寺院だと言えます。ストゥーパはその中心にあり、参拝者はネワール(Newar)族の尼僧からチベット僧そして仏教、ヒンドゥー教のバラモン僧と多様にわたります。ネパールで最大のブッダ像はストゥーパの隣の僧院にあります。また別の僧院には巨大なマニ車や仏教画そしてさい銭をすると光るというランプなどがあります。
伝説によるとカトマンズ盆地の歴史はスワヤンブナート、別名"大日如来"に起因します。文殊菩薩(Bodhisattva Manjusri)が旅の途中立ち寄った美しい湖の中央に光り輝く蓮の花を見ます。彼は蓮の中に現れた大日如来を拝むため南側の丘を切り裂き、水を排出します。やがて人々が湖の底に住み着き、カトマンズ盆地と呼ばれるようになったと言います。そして丘の上は大日如来の聖地となりました。丘の上のスワヤンブナートは遠くからも目立ち、カトマンズ盆地のランドマークでもあります。信者は東側のやや急坂を登りますがその分素晴らしい景観が楽しめます。ハンディキャップのある人や時間を節約したい人は西側の道をお勧めします。.
ボダナート・ストゥーパ: - ボダナート(Bouddhanath)は南アジア最大のストゥーパ(仏舎利)で、その高さは36m、白い山のように聳え立っています。そしてネパールにあるチベット仏教の主要な巡礼地です。ストゥーパはチベットとの古代交易ルートに位置し、昔からチベット商人の休息や礼拝所となっていました。1950年代になってチベットからの難民が入ってきたとき、彼らはこの地の周りに住み着き、僧院(gompa)を多く建設してきました。"リトル・チベット"と呼ばれるこの地はチベット族の暮らしぶりを垣間見ることのできるベスト・プレースと言えます。
パシュパティナート: - ヒンドゥー教の3大神であるシバ神はカイラシュ(Kailash)山にある輝く住みかに飽き、精霊の軍隊にも、彼の美しい妻パルバティ(Parbati)にも飽きてしまいます。そして全霊力使って完璧な安息の地探し出します。誰にも告げずに抜け出し、カトマンズ盆地にあるスレスマンタク(Slesmantak)の森に住み始めます。他の神々が彼の隠れ家を発見して呼び戻す頃には、この地で獣の王という意味のパシュパティ(Pashupati)として名声を得ます。その後、彼が住み着いたパシュパティの地はおおよそ1500年間も礼拝者の注目を集め、ネパール最大のヒンドゥー教巡礼地となったのです。この地にはシバ神の象徴である男根像リンガ(lingas)、他の神々を祀る社や寺院が集合しています。シバを崇める寺院はAD879年に建立されました。しかしながら現在の寺院は1697年マッラ(Malla)王により建設されたものです。パゴタ建築には金張りの屋根、銀のドアそして木彫の装飾が見事に施されています。1653年に修復されたグヘシュワリ(Guheswari)寺院には女性の強い力が描写されています。それは火あぶりの儀式における炎の中で一生を終えた妻の姿です。
さてシバ神は一度カイラシュ山に帰り、再び狩人としてパシュパティに戻ってきますが妻のパルバティは女狩猟家に変装し同行します。シバは彼女を誘惑しますが本当は妻であることを見抜き、恥じて家に戻ります。キラテシュワール(Kirateswar)寺院にはこのいわば不運な道行が記されています。
パシュパティ地区の周囲には6世紀頃のブッダ像や8世紀の梵天像そして沢山の寺院があります。それらの中には、1407年建立のラジャラジェシュワリ(Rajrajeswari)寺院、1400年もの昔のリンガ像があるカイラシュ高台、ゴラカナート(Gorakhnath)寺院、そして中庭のあるビシュワループ(Biswarup).寺院などがあります。破壊神シバに参拝するため南アジアの各地からヒンドゥー教信者の列が絶えません。.
近くを流れるバクマティ(Bagmati)川の側に火葬場アルエ・ガート(Arya Ghat)があります。私たちは火葬場や遺族への写真撮影は避けて頂くようお願いしています。肌に灰を塗り、腰布をまといシバ神に帰依する修行者サドゥーに出会えるかもしれませんが、写真撮影を頼むとお金を要求されます。また主なパシュパティ寺院の中庭の入場はヒンドゥー教の信者のみが許されています。
カトマンズ市のダルバール広場: - カトマンズのダルバール(Durbar宮廷)広場にある幾つかの迫力あるモニュメントには感動されると思います。生き女神が暮らす館、獰猛なカル・バイラブ(Kal Bhairab)像、赤猿の像そして数百におよぶエロティックな木彫りなど見どころが沢山あります。マッラ(Malla)王朝時代の偉大な建造物はパタン市、バクタプル市のものとも拮抗しています。後のネパール人子孫にとっても、今の旅行者にとっても見事な古代建築物についてお互いが芸術論争を繰り広げることは思いがけない発見につながるかも知れません。そういった意味でも重要な見所の一つと言えます。
パタン市のダルバール広場: - カトマンズ市の南東約5km、バグマティ(Bagmati)川の南岸にその古都はあります。市内には仏教遺跡や立派な銅製の入り口のあるヒンドゥー教寺院そして守護神像や素晴らしい木彫りに満ち溢れています。その広場は多くの見所やユニークな建造物を擁しています。クリシュナ・マンディル(Krishna Mandir)寺院はヴィシュヌ(Vishnu)神の化身を称えるため建てられました。パンダブス(Pandavs)神の兄弟でネパール商人の神でもある偉大な格闘家のビム(Bhim)神を祀るビムセン(Bhimsen)寺院には見事な金属クラフトが飾り付けてあります。金属彫像を見るならヒランヤ・カルナ・マハビナール(Hiranya Karna Mahabinar)寺院、通称ゴールデン・テンプルがお勧めです。また中庭のスンダリ・チョーク(Sundari Chowk)では精巧な木彫りや石像、金属彫像を見ることが出来ます。
バクタプル市のダルバール広場: - ネパール語で意味するところの"帰依者の町"は9世紀の初めには存在していたと信じられています。面積は約10平方km、24の通行区画に分けられているバクタプルは12世紀から14世紀までカトマンズ盆地の首都であり、その後イランのシャー国王に侵略される1769年までは独立した王国でした。ダルバール広場は建築上の重要な建物や芸術品に対して中心的役割を担っています。そしてアナンダ・マッラ(Ananda Malla)王がトリプラ(Tripura)を建設した12世紀中頃には早くも完成されおり、16世紀まで王宮として使用されていました。当時このバクタプル王宮は国内最大で最も豪華であったと種々の古文書に記録されています。99もの中庭と西にダルバール広場、東にスクル・ドーカ(Sukul Dhoka)までの道が伸びていました。王宮の中庭であるムル・チョーク(Mul Chowk)はマッラ王の家族神である母神タレジュ(Taleju)の為に奉納されました。南端のムル・チョークに隣接するタレジュ寺院はおそらくこの広場の中で最も古い建物だと考えられています。しかしながら17世紀までムル・チョークの存在を示す記録は見つかりませんでした。ヤクセシュワール・マハデブ(Yakseswar Mahadev)寺院は次に古く、パシュパティにあるものとうり二つに建てられました。ダルバール広場の南端に位置するこの寺院はヤクシャ・マッラ (Yaksha Malla: 1428-1482) 王によって建立されたとされています。
ダルバール広場における寄進者、建築業者ならびに複合施設の修復については1614年以降の重要な記録があります。その古文書によるとバクタプルの最後の3人の王、ジタミトラ・マッラ(Jitamitra Malla)、ブパティンドラ・マッラ(Bhupatindra Malla)そしてラナジット・マッラ(Ranajit Malla)が現在の姿を形成するのに主要な役割を担っていたことが判りました。特に芸術家たちに影響を受けたジタミトラ王が1673年に即位してからの23年の間は広範囲に大きな変貌を遂げました。彼はエタ(クマリ)チョーク(Eta (Kumari) Chowk)や隣接するムル・チョークそして木彫りの窓で壁を装飾し、女性ヨーガ行者や古代インドの叙事詩であるラーマーヤナ(Ramayana)からの風景画、タレジュが重要な役を演じる神と英雄の叙事詩などを描いた絵画を修復しました。後年彼はムル・チョークの北東に王宮の別棟タンブー・ダルバール(Thanbu Durbar)宮廷を加えます。さらに別棟の為に噴水、庭、四阿なども手掛けました。彼の死去の直前1696年にもバトサラデビ(Vatsaladevi)寺院の隣にシッディラクシュミのシカラ(sikhara temple of Siddhilaxmi)寺院を建立しました。この寺院の階段の両側には動物の彫像が建てられています。
彼の死後も、息子のブパティンドラ王はダルバール広場の建設を引き継ぎます。マラティ・チョーク(Malati Chowk)を再建し、上層階に55もの窓を有する"55窓の宮殿"も別棟として建てます。現在、広場の入り口になっている煉瓦と漆喰で造られた門も彼によって建設されました。これらの門は、現存はしていませんがバサンタプル(Basantapur)王宮の入り口でした。現在はライオン・ゲート、そして1707年に設置されたウグラチャンディ(Ugrachandi)像、バイラバ(Bhairava)像のみ残されています。言い伝えによるとブパティンドラ王はこの2体の像を大変気に入りましたが、バクタプル以外にこの彫刻家の作品が流出することを恐れ、この彫刻家の腕を切落としてしまったということです。ブパティンドラ王はまた気品のある4つの建造物、ジャガンナータ(Jagannatha)寺院、ラメシュワール(Rameswar)寺院、シーク派煉瓦様式のケダルナート(Kedarnath)寺院、2層パゴタ式バドリナート寺院をゲート近くに建てました。これらの寺院はヒンドゥー教巡礼者の神聖な地で、4つの神が祀られた"4カ所巡礼地"チャール・ダーム(Char dhaam)となりました。ただし現在インドに創立されている本当のチャール・ダームの代わりとしてでした。ブパティンドラ王の建築上最も意義深い寄進は広場の外苑、トウマディー・トレ(Taumadhi Tole)にある二つの寺院です。シバ神の怒りの形相像、バイラバ像のある3層の4角形の寺院は屋根に7つの黄金の尖塔があり、1717年に再建されました。隣のニャタポラ(Nyatapola)寺院はユニークな5層屋根で1702年に造られました。5層の傾斜屋根は108本の支柱と5本の台座によって支えられています。また寺院の入り口は急な石段になっており、その側面には戦士、象、獅子、神獣グリフィン(griffins)の各像そしてシムヒニ(Simhini)神像、ビャンギニ(Vyangini)神像が守護神として一対ずつ配置されています。上段に配置された石像は下段のものより10倍のパワーを持つと言われています。そして寺院が祀る女神シッディー・ラキシマ(Siddhi Laxmi)は石段上部の2体の神像よりもさらに10倍のパワーを持つとされています。1934年の地震による打撃で最上部の屋根のみが破壊されましたが、なおこの高さ30mの寺院が立ち続けているのはこのパワーのおかげでしょう。
ブパティンドラ王が1722年に死去した後、彼の後継者ラナジット王が47年間王国を統治しました。ラナジット王もまた芸術に造詣が深く、ダルバール広場の隆盛のために多く寄進しています。彼は彼の祖父がタレジュに贈った鐘を新しい大きなものに取替えています。タレジュ寺院に寄贈したこの鐘と銅製の太鼓は一日2回、女神への礼拝のため響いています。この大鐘の西側には蓮の台座の上に石柱が置かれています。この石柱はタレジュ寺院に面した礼拝位置に、黄金の日傘と呼ばれるチュダマニ(Chudamani)の傘の下にあり、上部にはブパティンドラ王の黄金像が付けられています。旧王宮とタレジュ寺院への入り口にあるゴールデン・ゲートは1753年ラナジット王から女神タレジュへ奉納されました。このゲートはカラシュ(Kalash)像、両側に別のご神体そして上部にはゲートを見下ろすように精巧なタレジュ像が装飾されています。さらにゲートの屋根には旗、尖塔、日傘、象そして獅子などが眼を惹きます。またムル・チョークに向かう通路は強度と輝きを増すようオイルに浸した煉瓦チッカ・アッパ(chikka appa)で敷詰められています。
バクタプルのダルバール広場は3代以上に亘る王たちによって建設されましたが、1934年の大地震によって甚大な被害を受けました。盆地に存在するほとんどすべての王宮、寺院が直ちに広範囲に修復をなされました。しかしながら、17世紀時代の遺跡の多くは大規模な発掘作業のため、立ち遅れてきました。今日見られるのは、12あった中庭のうち半分だけがムル・チョークの周囲に残っています。そしてヒンドゥー教徒、仏教徒のためだけに公開されています。マラティ・チョーク(Malati Chowk)は19世紀に入り修復されたものの、マッラ王の古美術品の多くは失われました。55窓の宮殿の上層階は壊れましたが、幸いにもクリシュナ(Krishna)王の巻物様式の連続壁画のある低層階は完全に残りました。これらの絵画は現在公開されています。ダルバール広場に向かって西棟、16世紀の初頭、ジャガ・ジョティ・マッラ(Jaga Jyoti Malla)王により建造されたチョーコット(Chowkot)宮殿は国立美術館に生まれ変わりました。8面角の別棟チャサリン・マンダップ(Chasalin Mandap)は55窓の宮殿の正面に立っています。この建物はもともとヤクシャ・マッラ(Yaksha Malla)王が妻の記念に建てたものでしたが地震で破壊、最近になりやっと再建されました。全方向の窓が開かれた姿はダルバール広場でも特に素晴らしい眺めです。
ダクシンカリ: - カトマンズ盆地の南、山あいの森林を流れる川に沿って位置するダクシンカリ(Dakshinkali)はシバ神の妃で残忍な化身女神カリ(Kali)を祀った寺院です。廟にあるカリ像は黒石で、6本の腕を持ち、男を踏みつける形をしています。この寺院では女神の流血慾を満たすため、人々は週に2回やってきて、若いオスの山羊、水牛、鶏などの動物を生贄にします。秋の収穫祭であるダサイン(Dasain)祭の時には、寺院が血にまみれ、観光客は完全に魅了されます。
ブダニールカンタ: -ブダニールカンタ(Budhanilkantha)にあるヴィシュヌ(Vishnu)像は土中から発見され、その形状は独創的です。おおよそ1000年前の物と思われるその像は、万物が創造される以前の広大な海に横たわるヴィシュヌ神を表しています。またブダニールカンタの頭上にシュバプリ(Shuvapuri)山がそびえる光景は、観光客に平和を感じさせます。あなたは地元の人々が毎朝晩お祈りをする姿をきっと眼にすることでしょう。
ルンビニ: - シャカムニ・ブッダ(Shakyamuni Buddha)は2500年前、ネパール南部のルンビニ(Lumbini)で生まれました。ルンビニはテライ平原の南部にある小さな町で、その遺跡は今も残っています。彼の生前から、ネパールは国内に仏教徒の聖地であるブッダの生誕地がある事を恐れていました。シャカムニ・ブッダは王族の家に生まれましたが、彼の母、マヤ・デヴィ女王は夢の中で彼の誕生を予知されていました。それは9本の牙を持った白い像が天から降りてきて彼女の中に入っていくという夢でした。出産が近付くと、彼女の家を離れ親の実家に向かいました。その道の途中、ルンビニの庭園でシッダールタ・ゴータマ(Siddhartha Gautam)を出産したのでした。
王子は、彼女がイチジクの木の枝に腕を休めていたとき、彼女の右わき腹に現れました。出産後、直ちに彼は7歩あゆみ、4つのきわめて重要な指示を与えました。また彼の足が地に触れるといつも蓮の花が咲いたと言われています。
この驚異的な誕生の後、シッダールタ王子は父の王宮に住み、外界の邪悪や苦悩から保護されていました。彼の父は王子がやがて聖者になるであろうと予言者から告げられていました。王は王子が宗教的な修行を遠ざけ、苦しみの経験に遭遇しないよう骨折りました。そして彼はシッダールタ王子が偉大な皇帝となる事を望み、王国を離れること決して望みませんでした。
しかし隔離された華麗な王室の生活でのみ暮らしていたシッダールタ王子はある日、思い切って城壁を超えます。城壁の外側では悲しみや苦しみ、死そして苦しみから解放されることを熱望する人に出会います。彼は乞食や不具者、死骸そして信心深い人を見ます。これらとの遭遇は若い王子に苦しみの根源を見つけ、楽にさせることへの願望へと目覚めさせました。ある夜、王宮の中が寝静まった頃、彼は脱出します。そして王子の衣服を投げ捨て、髪を切り、放浪の修行生活を始めたのです。
数年間、彼は断食や瞑想し、苦しみを終わらせる方法を探しだすために、厳しく辛い修行を行います。ある満月の夜、インド北部のブッダーガヤ(Bodhgaya)という町の木の下で瞑想していたとき、永遠の安息と解脱の境地ニルバーナ(NIRVANA)を直接悟ります。これが運命の王子からブッダへの変身でした。.
彼は人生のすべてを友愛の精神を持って人々をニルバーナへと導くために尽くします。彼がこの世から離れる時には、仏教を広める数千の弟子を持ちました。全身全霊を尽くし、84歳でこの世(生や死の輪廻から解き放たれニルバーナに到達するべき人のいる)を去ります。
ルンビニは全世界の仏教徒のための聖地となりました。修復された庭園やその周囲には数多くの古いストゥーパや寺院が残されています。インドのアショカ(Ashoka)皇帝によりBC250年に建てられた巨大な石柱にはブッダの誕生について刻まれています。
ルンビニで最も貴重なものはマヤ・デヴィ寺院です。ただマヤ・デヴィ王妃が枝を握りながら、ブッダ王子を出産したときを描いた石像は出産がかなわない不妊の女性によってかなり削り取られてしまいました。寺院の南にあるプールはマヤ・デヴィ王妃が最初に王子の産湯に使ったところと言われています。
ブッダがこの木の下で悟りを開いたとされる菩提樹の木陰のある素晴らしい庭園、そしてブッダの教えを引き出すような静寂の空気が漂う新しく植林された森。ルンビニは現在、修復再生と巡礼地としての発展のため、NGO"ルンビニ開発トラスト"のマスタープランにのっとり、開発中です。日本の建築家、故丹下健三氏の手により1978年完成したプランによると約7.7平方kmの土地を聖園、池、そして森に形を変えると云うものです。開発には、寺院ゾーン、アショカ王の石柱とマヤ・デヴィ寺院をとり囲む聖地の周辺、そして観光客のためのロッジ、レストラン、文化センター、ツーリスト・オフィス等を擁する新ルンビニ村も含まれています。
ルンビニの近くのある考古学上貴重なカピルバストゥ(Kapilvastu)はブッダが成長期に過ごした古城跡だとされています。散逸していたと見られた王宮の土台など豊富にあり、今までに考古学者はBC8世紀まで遡り13連続地層に居住跡を発見しています。考古学上、歴史的にも驚異と言えます。
また、ルンビニはネパール南部の村落文化の宗教的、歴史的に見て重要な拠点です。できれば月曜日市場に訪れてみてください。村の人々が穀物、スパイス、陶器、宝石類、そしてサリーなど様々なものを求めてやってきます。まるでアラビアンナイト物語のようにカラフルな商品が芳香を放ちつつ、マンゴーの木陰に広げられています。田舎の生活の一端を垣間見ながらお土産を値切って見る良い機会かもしれません。
ネパールについての歴史情報
ネパールは永く輝かしい歴史を持った国です。その文明はキリストの誕生のはるか数千年前迄に遡ります。近代ネパールにおいては過去、多数の独立公国からなる集合体でした。プリティヴィ・ナラヤン・シャハ(Prithivi Narayan Shah)王が国家統一運動に乗り出す以前、カトマンズ盆地は芸術、文化に偉大な功績を残したマッラ王達によって統治されていました。カトマンズ盆地にあったゴパラス(Gopalas)王国、アブヒラス(Abhiras)王国はタクリス(Thakuris)王とマッラ王に継承されました。西暦1768年シャハ王朝は統一王国の座を獲得します。現在のギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャハ・デヴィ(Gyanendra Bir Bikram Shah Dev)王は225年間続いたシャハ王朝の12代王です。
1846年以降、104年間統治してきたラナ(Rana)政権は1950年11月の革命により終止符を打ちます。ラナ政権の崩壊後、1951年2月ネパールは民主化の夜明けを迎えます。多政治政党による議会政治が数年間採択され、その後1960年にパンチャーヤット(Panchayat)体制が続きます。1990年の春、市民による民主化運動は多政治政党による民主主義体制を復活させます。1990年11月9日、王国に新民主主義憲法が発布されるに至ります。
ネパールは1987年11月カトマンズで開催された南アジア地域協力連合(SAARC)の設立国の一つになりました。ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ・デヴィ(Birendra Bir Bikram Shah Dev)王制は1971年1月30日から2001年6月1日までの30年間にわたりに続きましたが、彼は殺害されました。
2001年6月1日金曜日の夜、ナラヤンヒティ(Narayanhity)王宮にて国王一家の集まりの最中、アルコールと薬物に酔ったディペンドラ・ビール・ビクラム(Dipendra Bir Bikram)王子が王室一家の部屋に火を放ち、ビレンドラ王、アイシュワルヤ(Aishwarya)王妃を含む9名が死亡、その他多くの人が重傷を負いました。ディペンドラ王子は彼の婚約者の両親と諍いになり、銃により自殺を試みます。そして昏睡し、危篤状態のまま病院に運ばれましたが、ビレンドラ王の死亡が確認された時点で王位に指名されます。翌6月2日土曜日、このニュースは首都カトマンズ中に知れ渡ります。ヴィシュヌ神の生まれ変わりで生き神と見られていた故ビレンドラ王はネパール国民に深く愛されていました。国民はこの事件に信じられないほどのショックを受けたのです。土曜日の夜、王と王妃、そして王室一家の遺体は聖なるバグマティ川の側にあるパシュパティのアルエ・ガートに運ばれ、火葬にされました。この真実に自暴自棄となった人々は交通を遮断し、カトマンズの通りに暴動が発生します。人々は王への弔意を示すため髪の毛をそり、そして5日間の公務中断、13日間の喪服期間を過ごしました。6月4日月曜日の朝、ディペンドラ王も病院で死亡。その数時間後、故ビレンドラ王の弟、ギャネンドラ・ビル・ビクラム・シャハ・デヴィ(Gyanendra Bir Bikram Shah Dev)王が即位しました。四日間で3人の王、これは世界の王室のなかで2番目に不幸な悲劇です。
その後2006年ギャネンドラ王は議会の復活を宣言。議会政治の中で2008年に王制は廃止され、連邦民主共和国へと変革しています。